涼宮ハルヒの再考

放送終了後しばらくしてから適当な事をブログに書いていたのだけれど京アニクオリティという言葉が聞かれなくなって久しい今こそ『涼宮ハルヒの憂鬱』を語る絶好の機会だと思い「ハルヒを観たらダンスを踊ろう」などのアナーキーな言説で知られるHocha-hocha氏と麻婆豆腐を食いながら喋ってきた。DVDを見直したりしてないので作品内容ではなく現象中心の話。氏は「山本寛は視聴者から自由を奪った!」と変わらずの熱い言葉で楽しませてくれたが、そこらへんは氏のブログにいずれ書かれるだろうから省略。

ハレ晴レユカイ』で長門が普通に歌っている違和感

最近ED曲の『ハレ晴レユカイ』をフルで聞いて「あれ、作品に出てない奴の歌声がするな」と思ったら普段は喋らないキャラクター長門の声だった。おれはサイヤ人お好み焼き調理法を歌ったりグレートマジンガーが言葉を喋らないのにダラッダーな歌も平気で、一応オタ文脈の中に生きているから同人やパラレルワールドも理解してるつもりだけど、これには承服し難い何かを感じるんだよなー。なんでだろーと思ったら「涼宮ハルヒがメンバーを誘って作った歌」という設定*1なのに、それと矛盾した歌い方になっているからだわ。ムリヤリ参加させられているのなら他のメンバーはともかくあの長門が、劇中で常に冷静だった長門が、熱々おでんを口にしても顔色一つ変えず鶴ちゃんに怒られていた長門があんなメロディアスに歌うわけない。もっと初音ミクを買ったは良いが技術はないので残念なオタみたいな音階で歌うはずなんだ。
つまるところ「作品の整合性を尊重するか、キャラソンとしての価値を高めるか」の二者択一の状況を迫られた上で後者を選んでるところが気に食わないんだな。別にキャラソンとして独立しているのなら全然OKなんだけど。そこらへんのスイッチを上手く切り替えて使い分けできるのが今のオタなんだろうか。と尋ねたら氏は「それが動物化ですよ」と言ってた。そうか動物か動物なのか。

恋のミクル伝説』でミクルが二度も裏声を出すことの違和感

恋のミクル伝説』が下手糞一辺倒で、特に「恋の彼方へー」の「へー」の部分が裏声になる所が気に食わなかったんだけど、これも同じく「涼宮ハルヒがムリヤリやらせた歌」なのにキャラソンとしての価値を優先していたのが嫌だったんだわ。自主制作映画の主題歌であるという設定をもっともらしくするなら、二度目の「へー(裏声)」は控えめにするべきだと思うんだよなーというのは前にTwitterで書いたな。もちろん「へー(裏声)」で裏筋をシゴくオタが大勢いることを考えれば明らかに正しい選択なんだけどやっぱ少し引っかかる。
あとlu-and-cy氏のTwitterでの返信読んで、お約束を確認されることの不自由さもあるよなーと思った。同じくTwitterTriyol氏が言ってた受け手と送り手の信頼関係の話にも繋がりそうなんだけど、あんま整理できてないので保留。長門みたいな綾波キャラが未だに人気なのって受け手が自由に想像できるからなのかみたいな話をしてた。

京都アニメーションハルヒダンスはニセモノ

氏が「アニメは80%くらいの面白さが丁度よい。20%は視聴者に残しておくべき」と発言していて面白かった。近年は作品の面白さより、作品に参加できるかの方が重要で『涼宮ハルヒの憂鬱』もそこらへん巧みだったなー。そこからハルヒダンスが多くの人によって踊られたのはダンスが未完成のままOAされたからではないかとの話に。
踊り手は未完成部分を創作することで作品に参加できたわけだし、実際に各人が各々の振り付けを施して楽しんでいたと記憶している。彼らは自らの手でハルヒダンスを完成させ、踊りで体現することによってハルヒダンスを手中に収めた。ハルヒダンスは踊られることで創り手から離れ、受け手のものになった。だがハルヒダンス完全版絵コンテの公開でその流れは止まる。京アニ公式の正しいハルヒダンスを踊ることが強制され、彼らのハルヒダンスは駆逐されていった。京アニハルヒダンスをオタから奪還するためにあえて絵コンテを公開したのだ。自由な振り付けが介入する余地はそこにはなかった。オタは京アニが押し付けてきた正しいハルヒダンスに抵抗することもできたはずだ。少なくとも「あんなのはハルヒダンスじゃない!」と一蹴する権利が彼らにはあった。京アニはオタからハルヒダンスを奪っていった。しかしおれは今でも、放送時から踊っていた彼らの振り付け一つ一つが本当のハルヒダンスだったと信じてる。

*1:なんとなくそう思ってたんだけど公式にはどうなんだろ