『らき☆すた』に騙されないために

またH氏と会ってアニメトーク。オタトークの醍醐味は話をしている内に新しいことを色々と思いつき新境地に達せたような幻覚を味わえることだと思うので今期視聴アニメ0本のおれに話す場を与えてくれる氏はありがたい。前回は『ハルヒ』だったので今回は『らき☆すた』中心に。
らき☆すた』22話 母親幽霊エピソードの居心地の悪さが気にかかっていて、それはオタの現状をオタではない母親に肯定させていることの気持ち悪さから来るものなのかなーと片付けていたのだが、よくよく思えばあのエピソードって母親も含めてオタの表象しか登場してないのか。こなたはオタだし(趣味が、ではなくて美少女キャラに自分の思いを共有してもらいたいという欲望の矛先としての)*1父親はオタそのもの。そんじゃ母親はといえば、見ているだけの存在である点が視聴者であるオタと同じ状況だ。画面を見ることしかできないオタは、幽霊であるがゆえに物語に介入できない母親の姿を借りて作品に参加させられている。母親が残された家族を見て「今自分があの場所にいられないのが少し悔しい」とつぶやくセリフは『らき☆すた』を見ているオタが発したとしても何らおかしくはない。あの母親も実はオタなのだ。
オタがオタとオタオタしているのをオタが見ているというオタメター。その状況は別によいが、母親に(つまりオタに)言葉を与えエピソードを肯定させているのが腹立たしいんだよなー。オタは作品に参加させられてしまったがために作品を評価する行為までも奪われてしまった。美少女であって母親であって島本須美氏の声までをも合わせ持つ幽霊の言葉を否定することは容易でない。テレビの前のオタはテレビに映る母親と同じように「やっぱりかなわないなー(さすが京アニ!)」と涙を流す。その用意周到さが憎らしい。だけど母親に「私が一番安心できる場所」って言わせてることは、君達は現実よりもアニメ見ていた方が幸せなんだろって決め付けられているもんだよなー。いやーオタのみなさんバカにされてますよ。母親のセリフと同じく「いっぱいの幸せを与えた」とでも思っていそうな制作者の傲慢さに怒りを覚えるべきです。今すぐ画面をぶち破り「わたしはここにいるよ」と叫びましょう。作品に感動するのはその後でも良いはずです。

*1:らき☆すた』の原作者が女性であると勘違いしていた人が多かったこととも似てるのかなー