なぜオタは聖地巡礼をするオタにムカつきますか?

アニメの舞台となった場所を実際に訪れてみる。この行為は「聖地巡礼」と称され、公共放送で特集される程の社会現象になっているようだ。試しに検索サイトで聖地巡礼と入力すれば、アニメの舞台へ赴いたオタのレポートが散見されるだろう。多くの場合は写真も添付されていて、作品で見た構図そのままに撮られた手の込んだものさえ存在する。まるでアニメの世界が現実に立ち現れたかのようだ。それらの報告はどれも皆たのしそうで、聖地巡礼と言えば『マクロスF』に登場したファミマなる小売店にしか赴いたことのない私までなんだか朗らかな気持ちになってくる。
だがそれも最初だけ。暫くすると沸々と何かが自分の中で浮かび上がってくるのに気付く。なんだコイツラ。なんでこんなに幸せそうなんだ。アニメキャラと本当に会ったようなはしゃぎっぷりを隠さないレポート群に疳の虫を刺激され憤死寸前。怒りで目の前が真っ暗になり、気付くとモニタは割れ母親が泣いている。そういった経験を持つのは私だけではないはずだ。なぜ人はオタの聖地巡礼報告を読むとムカついてしまうのか。まぁ人間は自分が楽しめないもので楽しんでいる人を見ると無性にイライラしてしまう生き物なので、この憤りもそういうことなのだろう。と納得させていたのだが、四方田犬彦『映画はもうすぐ百歳になる』(筑摩書房)を読んでいたらその原因が分かった。押井守『トーキング・ヘッド』に影響を与えたことでも知られるこの本にはアニメの聖地巡礼ならぬ映画のロケ地巡りに関する記述がある。そのページを少し引用してみよう。

わたしの友人の一人は、高校時代繰り返し見た『愛ふたたび』というフィルムが忘れられず、ついに大学を金沢に選んだ。彼は一年をかけて、浅丘ルリ子ルノー・ベルレーが落ち合うフランス料理店を探しまわり、ようやくそれがセットであったという無念の結論を得た。(中略)
『トランス・イタリア・エクスプレス』(筑摩書房・水星文庫)のなかで、ヴェンダースの『ことの次第』のロケ地を訪れたいという欲望にかられた細川周平は、ほとんど何の手掛かりもないままにリスボンを訪れる。そして画面の記憶を頼りにようやくのことで目的の場所に到達する。ところが、そこは映画で描かれた荒涼とした土地などではさらさらなく、海水浴客で賑わっている観光地であることが判明してしまう。(中略)
何人ものわたしの友人の試みは失望を招くばかりである。現実の光景とは映画とも訪問した主体の過剰な思いいれとも無縁に存在している。それもただひたすら無限定に退屈に……。
―82-83ページ

聖地巡礼をしたオタが概して幸福な体験を得るのに対し、ロケ地巡りをしたシネフィルには過酷な運命が待ち受けていることが分かるだろう。最悪の場合セットのためロケ地自体が存在せず、よしんば現地に辿り着けたとしても映画で観たそれとは全く違う光景が広がっている。ロケ地巡りをしたシネフィルは映画に近付くどころか、映画が虚構であることを嫌と言うほどに味わわされてしまうのだ。同じものを見ているはずなのに「違う」と思わせる映画と違うものを見ているはずなのに「同じだ」と思わせるアニメ。その差異に思いを馳せるのもよいかもしれないがそんなのはどうでもいい。
つまりおれは聖地巡礼をすることでアニメの儚さを知ってしまったオタのレポートを読みたかったんだよ。行政が用意したアニメキャラのポップと一緒に撮った写真や、三次元より二次元の方が良いと言ってたオタが最終的にコスプレした女性を御輿に乗せて担いでしまうドキュメンタリーなんか見たくないんだ。「鷲宮神社に行ったがこなたはいなかった…」と真っ二つに割れた絵馬と共にコメントを残すようなレポートが読みたかったんだ。そして聖地巡礼で絶望を知った彼を誘って一緒にアニメを見たいんだ。なんなら君も、そう君さ。僕らと一緒に君もアニメを見続けようよ。モニタの向こう側に広がる本当の聖地が見えるまで。