『トイ・ストーリー3』と朽ちたイチゴの香り

『トイ・ストーリー3』の予告を観た時のことは今でも覚えている。あまりに鮮烈で、その後に流れた映画本編の内容が頭に入らない予告は初めてだった。それは一緒に観に行った友人も同じだったようで、映画が終わって食事をしている時も本来観たはずの作品については全く触れずに予告の話で盛り上がっていた。別れというテーマが簡潔に、それでいて明確に表現されている内容はもちろん、個人的にはビデオ特有の粗い映像が憧憬の対象として、取り戻すことのできないものとして表現されているのが新鮮だった。日本のシネマ・コンプレックスではフィルム上映とデジタル上映が混在していた2010年に観られたのも幸福だったのかも知れない。それから2年が経過した今では、予告を観た映画館は全ての作品をデジタルで上映している。
しかし胸を打つ予告を観てしまった者の常として、つい余計な心配もしていたのだった。つまり本編は予告を越えられるのだろうかと。数多く存在するトレイラーだけが面白かった作品に『トイ・ストーリー3』も名を連ねてしまうのではないか。どうしてもそんな恐れを抱いてしまう。いや、こんな素晴らしい予告を観せてくれたのだから本編がダメだって良いじゃないか。むしろダメであるべきなのだ!と傷つくことに慣れすぎた我々は予防線を張り巡らせていたが、当然それは杞憂に終わった。

二つの段ボール

『トイ・ストーリー3』は主人公である玩具のウッディと、その持ち主アンディの別れを主題に物語は進んでいく。もうすぐ大学生になり親元を離れる準備をしているアンディは、引っ越し先にウッディを連れて行くのか、それとも置いていくのかがサスペンスとして描かれる。ウッディが"大学"と書かれた段ボールに入れられれば、これからもアンディと一緒。"屋根裏"の段ボールなら実家に居残り、別れが待ち受けている。だが、その結末はほとんど決まったようなものだ。あの予告編が別れを描こうとしているのは明らかだし、そもそもピクサーが「ウッディはアンディと一緒にいつまでも幸せに暮らしましたとさ」というエンディングを用意しているとも思えない。ウッディの"屋根裏"行きは確定的だろう。本編を観る前から分かりきった話だ。
そう分かっているはずなのに、アンディが一番古い玩具であるウッディだけを"大学"行き段ボールに入れた所で「もしや…」と思う。続いて作品の終盤、アンディが"屋根裏"段ボールの他の玩具たちをプレゼントするため、女の子の家へ向かう場面を観て「おお、本当に別れさせないエンディングなのか」と確信してしまった。よくよく考えれば想定できる「ウッディは"屋根裏"段ボールに入り直し、自ら別れを決断していた」という本当のエンディングに全く思い至らなかった。"屋根裏"段ボールの中に存在するはずのないウッディの姿を見付け、アンディと一緒に驚愕する結果となった。なぜ自分は(おそらくは観客の多くも)ウッディが"大学"行き段ボールに入ったままだと思い込んでしまったのか。誤解する原因となった、アンディが女の子の家へ行くシーンを詳しく観てみよう。
   
女の子の家へ向かったアンディは、車を家の前に止めて"屋根裏"行き段ボールを持って外へ出る。その時、車の後ろに積んである"大学"行き段ボールが画面に映る(画像左)。カメラはそのまま段ボールに近付いていく。画面のほとんどが段ボールに占められるとショットは切り替わり、女の子の家に向かうアンディの後ろ姿が映される(画像右)。画面が長方形に隈取りされている点や前述のカメラワークから、このショットは"大学"行き段ボールの中にいる人物が外を覗き見たものなのだろうと推測できるようになっている。要するに、プレゼントされる他の玩具たちを見守っているウッディの視線なのだろうと思ってしまった訳だ。このなんてことはない無粋な種明かしを読むと、上記のショットは受け手のミスリードを誘うために挟まれたアンフェアなものに思えてしまう。実際"大学"行き段ボールの中には誰も入っていなかったのだから、これは観客を騙すだけに存在する卑怯なショットではないかと。だが『トイ・ストーリー3』はこのショットを挟んだことで、玩具/持ち主という物語上の要素とは異なる、別の関係性を作品内に持ち込むこととなった。

ウッディとアンディ/映画と観客

   
『トイ・ストーリー3』の玩具たちは遊んで貰う機会に恵まれず、長いこと玩具箱の中に仕舞われっぱなし。ようやく出されたかと思ったら今度はゴミ袋や段ボールに入れられてしまう。哀れな玩具たちは狭くて暗い場所から外を覗き見ることしかできない。本作のストーリーは玩具たちが箱の中から外の様子を伺う場面から始まっていたし(画像左)、舞台となるサニーサイド保育園に到着した時も段ボールから覗いていた(画像右)。このように『トイ・ストーリー3』では登場人物の主観ショットが多く採用されている。観客はこのキャラクターの視線と自分の視線を重ね合わせることで彼らに感情移入していく。玩具たちが映画館の環境とよく似た暗くて狭い場所にいることもキャラクターへの同一化を容易にさせ、映画特有の甘美な体験を満喫することができる。
しかし先ほど述べたように、本作で使用される最後の主観ショット、"大学"の段ボールからの視線だけはそれまでのものと決定的に異なっている。いかなる登場人物の視線でもない、偽りの主観ショットであったためだ。キャラクターと視線を共有していた観客が、最後の最後に自分一人だけの視線に戻されてしまう。これは物語のラストで玩具の側から別れを告げられてしまったアンディと不思議と重なってしまう。アンディが玩具といつまでも一緒にいられなかったのと同じように、観客である我々も映画を永遠に観続けることはできない。それを露呈させるかのように、ウッディが"大学"の段ボールに入っていなかったと明かされた後、その驚きが冷めない内に映画は早々と終わってしまう。すぐさま劇場の照明がともり、従業員のアナウンスが早く家へ帰るように促してくる。
『トイ・ストーリー3』は偽りの主観ショットを挟むことで、玩具と持ち主だけでなく映画と観客の関係性にも踏み込むことになった。ウッディは持ち主であるアンディだけではなく、観客にも別れを告げていたのだ。それではウッディはどうして一度は決めていたはずの新生活を捨てて別れを選んだのだろうか。ここにも「映画」という要素が関わってくる。

映画を観たウッディ

外での大冒険を終えた玩具たちはアンディの部屋に戻る。互いに別れを告げた彼らは、ウッディだけが"大学"行き、他の玩具たちは"屋根裏"行き段ボールへ入る。そこにアンディと母親が部屋に来る。するとカメラは一歩引き、部屋の全景を映す。物に溢れていたアンディの部屋はすっかり片付いて閑散としている。母はこれを見て、もうすぐ息子も部屋からいなくなることに気付いてしまう。カメラを引くだけで『トイ・ストーリー3』を母と息子の話に変えてしまった凄い場面だ。前半のアンディの部屋があんなに汚かったのはこのシーンのためだったのか、と思う暇さえない。一瞬で空気は変わり、まるで劇中劇が始まったかのようだ。母は「ずっと一緒にいられたらいいのに」と息子を抱きしめる。それをウッディは目撃してしまう。

どうも自分にはこの場面が、ウッディが映画を観ているショットのように見えてしまうのだ。画面の構図はもちろん、暗い段ボールの中から唯一漏れる光を眺めている点や、サニーサイド保育園に到着する時とは違い言葉を発することなく黙って二人の姿を見つめる様子も、その思い込みに拍車をかける。母と息子の別れを見たウッディは、それまでの決意を全て翻して正反対の行動を起こす。何かに取り憑かれたかのように、ほとんど発作的に。
やはり自分はウッディが突然に決断したのは、母と子の別れを扱った映画を観てしまったために思える。このショットには映画が人の(玩具の)人生を変えてしまった瞬間が表現されているように思えてならないのだ。そして『トイ・ストーリー3』は「映画は人生を変えることができる」という自信に溢れた作品なのだろう。いや、自信という大げさな言葉で飾るのは正しくないのかもしれない。本作は、映画を観ると人生は当然変わってしまうもので別段めずらしいことではないと、さらりと表現しているからだ。もちろん自分もその変わってしまった一員であることは間違いないし、おそらくあなたもそうなのだろう。

もう一人のウッディ

つまり『トイ・ストーリー3』が教えてくれるのは、映画やアニメを観れば人生は良い方向に変わっていく――。なんて牧歌的なことだったら、おれはわざわざこんな長ったらしい文章を書かなかったし、この作品を心底軽蔑していただろう。そんなのウソに決まっているからだ。第二次大戦中にはアニメーションの技術がふんだんに使われたプロパガンダ映画を観て多くの新兵が死地に赴いた、なんて歴史的事実を紐解かなくてもおれの周りにはアニメに魅せられて身を持ち崩した奴らで溢れているし、別にそのことに後悔もしていないだろう。
『トイ・ストーリー3』にはウッディの他にもう一人、映画に似た何かを観てしまったせいで人生が変わってしまったキャラクターが存在する。彼は真夜中に窓ガラスというスクリーンを通して明るい部屋の光を見てしまった。そのせいで彼の人生は一変してしまう。幸運にもその光景を見なくてすんだビッグ・ベビーは優しい心を失わなっていなかったし、一緒に目撃したはずのピエロはあまり変わらなかった。(驚くべきことだが映画を観ても人生が変わらない奴も存在する)*1だが彼に与えられた変化は決定的なもので、自分の命をウッディに救われても改心することはない。逆にウッディを見殺しにしようとさえする。彼は映画のせいでダークサイドに堕ちてしまったキャラクターとして描かれている。
『トイ・ストーリー3』が教えてくれるのは、アニメを観ると人生は(良きにつけ悪しきにつけ)変わってしまうということだ。変わってしまう前の人生を取り戻すことはできないし、アニメは変わってしまった後の人生に責任を持たない。当たり前のことだ。そして変わってしまった者同士として、ウッディと彼は兄弟みたいなものだろう。ただそれがプラスに働いたかマイナスに働いたかの違いでしかない。*2そしてこの作品を観た後でおれはどうしても考えてしまうのだ。自分はウッディなのか、それとも彼なのかと。その時になぜか流れる汗からイチゴの匂いを漂わせながら。
そんな『トイ・ストーリー3』が本日7月8日午後9時から日曜洋画劇場で地上波初放送。さらに7月21日(土)全国ロードショーの『メリダとおそろしの森』では最新短編作『ニセものバズがやって来た』が同時上映されるぞ。みんなもテレビで前作の復習を済ませてから映画館へ向かおう。
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*1:だがそれはピエロが映画的素養を持ち合わせていなかったというより、道化師であるその姿が関係しているように思える

*2:本当はウッディの行動も正しかったのか誰にも分からないように描写されている。寄付先の女の子が腐女子に目覚めウッディとバズをBLごっこに使用する展開も十分考えられる