宮崎駿がヒロインに声優を使わなくなった理由

その平成最大のミステリーは多くの人々によって語られているが、活発な議論に関わらず私たちが耳にする結論は二つのパターンに限られてしまう。一つは声優という職業を不当に貶めたもの。もう一つはビジネスの側面から論じたものだ。もちろん私たちは「ジブリ作品は実写に近いような動きのため、声優の声に違和感を感じる」と本当にジブリ作品を見たことがあるのかさえ疑わしい公式見解を信じるほど従順でなければ「電通が―」とマーケティング目線でアニメを語る一派に与するほど愚かでもない。この退屈極まる二つの結論から逃れ得た答えこそが宮崎駿と声優を巡る言説を進展させる糸口になるだろう。
私はその答えを求め遠く八王子へ降り立った。この地で隠遁生活を送るR氏(元H氏)を訪ねるためだ。大学の奨学金制度を利用し声優ライブに通い詰めていた彼ならば新たな示唆を授けてくれるに違いない。一縷の望みを託しグッズの山に埋もれた廃墟をかき分けて進むこと30分。そこにR氏の姿があった。数年ぶりに見た彼はエンゲル係数水樹奈々に注ぎ込んでいるとの噂通り痩せ細っていたが、サイリュームを振る右手の太さが辺境まで出向いた行為は徒労にならないと教えてくれた。R氏は私を見るなりすべてを悟り訥々と語りはじめた。
宮崎駿と声優についての謎。解き明かすには宮崎自身が語ったとされる発言が鍵だという。情報源が不明*1、ゆえに広く伝播している宮崎の声優に対する批評。すなわち「声優は娼婦の声」という言葉。そこに氏は疑問を唱える。確かに声優は「娼婦の声」なのかもしれない。それは認めよう。だが声の主であるキャラクターはどうなのか。宮崎駿が産み出したキャラクターはエロチシズムに溢れた肉体を持っていなかったか。「娼婦の声」だけではなく「娼婦の体」までも備えていたではないかと。ジブリ設立前の作品『風の谷のナウシカ』を見てもそれは明らかだ。ナウシカの胸はなぜあんなに大きいのか。どうしてテトをそこにしまうのか。母性の象徴との話も聞くがR氏は一蹴する。それだけでは説明できないのだ。ナウシカにおける最もセクシャルな俗説。今でもまことしやかに語られているナウシカノーパン説を。これは単にタイツを肌と似た色で塗ってしまったためにおきた錯覚などではない。宮崎駿の絵と島本須美の声。二つの魅力が合わさった結果パンツを消し去ってしまった事件である。
宮崎駿のキャラクターに声優の声が加わると絶大なエロスが生まれる。宮崎をアレス、声優をアプロディテに見立てた壮大な叙事詩を前に私は立ち尽くすしかなかった。そんな私を置いてR氏の論説は加速し続ける。さらに『となりのトトロ』ではアニメファン以外からも南ちゃんの人として「かわいい声」で知られる日高のり子を起用したためエロさが際立っていると言う。調査したところサツキの入浴シーンで射精しなかった男子はこの世に存在しないらしい。まるでびるしゃな如来にかかっているかのように皆思わず抜いてしまう。そんなバカなと思いつつ、私自身もそのリサーチを否定するデータを提供し得ない事実に驚きを隠せない。
しかし宮崎は自身が産むエロスを好ましく思わなかった。アニメ誌においてロリコンに対し否定的なコメントを残した彼なのだから当然なのかもしれない。そしてキャラクターと声優の蜜月関係を断ち切ってしまう。『紅の豚』以後のヒロインに声優を使わなくなった宮崎作品は、いかにしてキャラクターからエロスを削ぐか苦心し続けた闘争の歴史でもある。『もののけ姫』ではヒロインの声を女優に演じさせ『千と千尋の神隠し』では自らブスと語るキャラクターデザインの少女を主人公に据え『ハウルの動く城』では老婆を主人公にし、若返った時の声さえも倍賞千恵子に当てさせ『崖の上のポニョ』では小学生が声を担当、魚なんだか蛙なんだか人間なんだかよく分からない生き物がヒロインになる始末だ。観客に萌えさせることを許さないこの執念はなぜか宮崎自身が監督する作品だけに限られており、脚本を提供した『借りぐらしのアリエッティ』や『コクリコ坂から』では不思議と見られない。宮崎は自分の産んだキャラクターが持つエロスに自覚的だったのだろう。R氏はそう喝破し、「声優は娼婦の声」発言がその責任を声優だけに負わせるための策略であったとさえ言ってしまう。宮崎駿はキャラクターのエロチシズムを隠すため声優を使わなくなったのだ。
帰途につくための中央線に揺られ私は一人考えていた。R氏が解き明かした宮崎駿の企て。それが事実であるかどうか私には分からない。だが一つ疑問に思ってしまうのだ。ヒロインに声優を使わなくなった宮崎作品はキャラクターの持つエロスを隠し通せていたのだろうかと。両足をくっつけ合うポニョに、おさげを食べさせるソフィーに、錆びたパイプの上を走る千尋に、私たちは言い様のない何かを感じていなかったであろうか。宮崎駿は恐らく自作においても簡単にはヒロインを萌えさせてくれない作品を送り出すだろう。しかしそれでもなお、今までがそうであったように私たちは宮崎のキャラクターに惹かれてしまうのではないか。そう思ったとき電車は東小金井駅を通過していった。

*1:おそらく、宮崎駿から聞いた話として司馬遼太郎井上ひさしに語った内容が元になったと思われる。司馬遼太郎/井上ひさし『対談 国家・宗教・日本人』

『スーパー!』←今週のオススメ

おれは『キック・アス』が大嫌いなので無邪気に絶賛するオタを見つけるたびに
あなたはツタヤの情報誌で表紙を飾るような作品が好きなんですか。
『しゃべくり007』でくりーむしちゅー有田にイチ押しされるような作品が好きなんですか。
超映画批評で←今週のオススメと書かれた作品が好きなんですか。
と問い詰める毎日を過ごしてきた。
だってもういいじゃないですか。オタが好む題材からオタ的な煩悶を切り捨てた作品をつくるのは。
ラーメン二郎へ行ったら無化調ラーメンを出されるような作品は細田守だけで十分ですよ。
それにストーリーも要約すると
「オタクだって人を殺せば彼女ができるぞ。みんなもレッツ殺人!!」
って内容でしょ。殺人教唆映画ですよ。と核心を突いた所
「違います。絶対あきらめなければ人はヒーローになれる。という前向きな内容です!!」との反論が。
で、でたー。今流行のワード「絶対あきらめない」がでましたよー。
自戒のようでありながら、実際には他者への押し付けとして使われる恐怖ワードが降臨しましたよー。
ももいろクローバーは「絶対あきらめない We are」と歌い
円堂守は「サッカー大好きな仲間が居る限り、俺は絶対あきらめない!」と叫び
東映アニメーションは「ぜったいにあきらめないっ!!」と描かれたプリキュアの壁紙を提供し
菅直人は「絶対あきらめないという気迫が結果をもたらした」と女子サッカーを語る。
あらゆる事象に「絶対あきらめない」を見出してしまうネバーギブアップ国家ニッポンの臣民がココに!
と小馬鹿にしていたら『キック・アス』肯定派からボコボコにされてしまった。
やはり『キック・アス』は危険だという認識を深めながら歩いていたら、こんな記事を見つけた。
キックアス! 映画と原作の相違点、のはなし:ヘボログ:So-netブログ
あーなるほどー。映画の『キック・アス』は原作でちゃんと描いてた苦悩を意図的に取り除いたのかー。
ってことはおれは『スターシップ・トゥルーパーズ』に本気で怒ってた人みたいな感じになっちゃうのかな。
いやでもちょっと違うというか逆だよな。『オトナ帝国の逆襲』の後で『ALWAYS 三丁目の夕日』をつくっちゃった感じだし。
と新たな悩みを抱えていたら、映画の『キック・アス』が気に食わないお前は『スーパー!』を見ろとの牙指令が下ったので行ってきた。面白かった。
おれは食べやすいように魚の骨を取り除いた作品じゃなくて臓物を丸ごとガブリと食いたいんじゃー。臓物を臓物を食わせろー。って飢餓感を満たしてくれる作品だった。
それにエレン・ペイジがエロい。『キック・アス』のクロエ・モレッツは未成年なのでセックスしたら手が後ろに回るけどエレン・ベイジは成人しているので安心だ。
と未成年に劣情を催させる『キック・アス』の危険性を再認識したところで一つ気になったところが。
『スーパー!』って登場人物がfuckやらbitchやら言いまくるんだけど字幕だとビ●チやフ●ックと伏字で書かれてるんだよなー。なんでだろ。
字幕にビッチやファックと書いてはいけないって決まりがあるのかな。伏字を使わない方が作品内容とマッチしてて良いと思うんだけど。
まぁ全体としてはとっても面白かったので『スーパー!』オススメ。超オススメ。
と思ったら『スーパー!』超映画批評でオススメされてる。それに超映画批評『キック・アス』オススメしてなかった。超映画批評ゴメン超ゴメン。

Kinectとコントローラーとしてのおれの身体

Kinectは2010年にマイクロソフトから販売されたXbox360向けのゲームデバイス。コントローラを用いずに操作ができる体感型のゲームシステムで、ジェスチャー音声認識によって直観的で自然なプレイが可能となる(Wikipediaより)。簡単に言えばテレビの前に立って身振り手振りで遊べるゲーム機って感じ。同時購入したKinect対応ソフトは『Dance Evolution』 ゲーセンにあった『Dance Dance Revolution』が足元にある上下左右4つのパネルを踏んで操作していたのに対し『Dance Evolution』は全身が入力装置。キャラクターが披露するダンスを自分の体で正確に再現するほど高得点という仕組み。テレビの前で実際に踊るダンスゲームだ。
ということで早速プレイしたんだけど面白いわー。センサーが優秀なのか「いやちゃんと踊ったって!」みたいな理不尽な判定があんまないし何より体を動かすのが無意味に面白い。久々の運動に興奮しジャンプやシャウトを交えながらの大胆プレイ。時を忘れて踊り狂っていた所に「さっきからうるさいんだけどー」と妹が入ってきた。汗だくの兄+部屋から伝わる振動+妖しい喘ぎ声=奇抜なオナニーの開発 と早合点したのか無言で出て行こうとする妹に「違うよゲームなんだよ」と説明ながら少し遊ばせることに。部屋の隅っこで体育座りをしながら(そうしないとプレイの邪魔になる)観戦。すると意外に上手い。初プレイにしては良いスコアだ。妹も気に入ったようで2回3回とプレイを続けていく内におれの半日がかりのハイスコアが抜かれ、ついには最高評価AAA(トリプルエー)を叩き出す始末。これはかなりショックだった。
というのもおれは今までゲームで妹に負けたことがないんですよ。おれのザンギエフは妹のチュンリーを絞め殺し、おれのドンキーコングは妹のピカチュウを殴り殺し、おれのレッドスター軍は妹のブルームーン軍を蹂躙する。ゲームを滅多にしない妹は兄の華麗なパッド捌きの前に平伏すしかなかったのだ。「もうお兄ちゃんなんかとゲームしてあげないんだからねっ!!」と吐き出される罵倒すらも心地良い。ゲームはいつも兄であるおれの自尊心を満たしてくれた。それがなぜこんな有様に。チクショウ。怒りのあまりコントローラーを妹に投げつけようとした手が空を切る。そこでようやく気付く。コントローラーがないからだ。正確に言えばおれの体がコントローラーだから。おれは体を動かすのが苦手だからゲームをしていたんだ。徒競走でビリになり大縄跳びでミスをしてドッヂボールで女子に当てられた屈辱。思い通りに動かせない愚鈍な肉体に対する怒りを指先の動きに変え、コントローラーを巧みに操作することで現実に復讐していたのだ。マリオはおれの代わりに高く飛びソニックはおれの代わりに速く走りくにお君はおれの代わりにドッヂボールをキャッチしてくれた。
だがKinectは違う。誰もおれの代わりに踊ってくれない。おれの体がコントローラーだ。普段「プレステのコントローラー糞過ぎて使えねーよ」と粋がっていたがおれ自体、全身が360の十字キーで作られたような最悪の操作性の持ち主だったのだ。そんな不良コントローラー男が妹に勝てるはずがない。もう駿河屋に売ろう。と諦めてしまうのが普通だがおれは違った。もっと遊ばせろとせがむ妹を追い出し特訓開始。さらに半日のダンスの末、ついに妹のスコアを抜くことに成功した。やったぞ努力の大勝利。いやー筋肉痛が気持ちいいね。流石に疲れたので少し休もう。
Kinectには自分がプレイしている姿を録画してくれる機能があり『Dance Evolution』では踊ったダンスを見て楽しむこともできる。それを視聴しながら休憩しよう。まずは妹のダンス。まぁまぁだがその腕前は我が家では二番目だ。続いてハイスコアのおれのダンス。そこには華麗なダンスを披露する青年男子の姿が、映ってはいなかった。ダンスとは程遠い奇妙な動きをした変質者が映っていた。真冬なのに汗まみれでパンツ1枚。激しく動く度に裾からはイチモツがハミ出す。なんだコレは。こんなのダンスじゃない。南米の呪術じゃないか。KONAMI社はこれがダンスの進化だとでも言うのか! この差は何なんだ。同じ音楽で同じ踊りなのに。同じAAA判定なのに。そしておれの方がハイスコアなのに…。
うーん恐らく妹は純粋にダンスを踊ってAAAを獲ったのに対し、おれは「ここの判定は甘めだから」云々とゲーム的な勘に依拠したダンスを踊っていたのだろう。そのためハイスコアを獲るためだけが目的の動きになってしまい、ダンスとしては極めて歪な気色の悪いものになってしまった。こ、これが飯野賢治が言うところのデジタルの悲しみ…。ハイスコアを奪取しても体は上手く動かせないまま。おれは今日も一人で呪術を踊る。画面に光るPerfect!の文字だけがその姿を照らし続けていた。

『けいおん!!』のDVD7巻まで見た。

けいおん!!』はDVD待ちで毎月ゆっくり視聴してるのだけど学園祭回の20話が面白かった、いや正直面白くはなかったのだが「これでいいのか?」とある種の衝撃を受けたのは事実であって赤塚不二夫的結論を導き出すまでに三日ほど思案を要したという点において面白かったので結果として20話は面白かったのだろうと思う。
そんでどこらへんが衝撃だったのかと言うと、グダグダだけど大盛況なところ。正確に言えば観客の愛によって盛り上がってしまっているところで『けいおん!』メンバーのクラスメイトでもなければ毎週楽しみにテレビの前で待っている熱心な視聴者でもなかったおれは必要とされてないライブだったのだ。まるで『笑っていいとも!』のスタジオ観覧へ行ったような居心地の悪さ。「お前このギャグ中居君が言ったから爆笑してるだけで他の芸人だったら黙殺してるだろ!」と女性客を罵倒することしかできない。
華麗な演奏を期待してたのにグダグダなMCが行われるなんて…こんなの楽しいのは身内だけじゃないか。という批判はしかしながら正しくないのだろう。というのも『けいおん!』は仲間の優しさを無条件に受け入れることを是とした作品だったからだ。ギターはメンバーのコネで値引いてもらい部室は生徒会長の力で割り当ててもらい顧問が担任なので全員同じクラスにしてもらえる。そんな恵まれた環境を当たり前のように受け入れる度量が彼女たちには存在する。「甘えてたらダメになる!」的なオトコノコっぽい葛藤とは無縁だったからこそ『けいおん!』は売れたんだろうし。
そんじゃ何故そのことを忘れてたのかというと『けいおん!!』は一期に比べてクラスメイトがかなり目立つように描かれてて『とらドラ!』と同じかーとうっかり早合点したから。『とらドラ!』は2クール目から主人公達がそれまでモブ扱いだったクラスメイトと絡み始め、スゲー安易な言葉で言えばそれが内から外への成長として描かれる(1クールと2クールのOPの違いが端的)。なので『けいおん!!』もそれを踏襲したんだなーと思っていたのだが、違った。『けいおん!!』のクラスメイトは内から外へ出るためではなく、内を広げるための、ありのままの自分を受け入れてくれる範囲を拡大させるために表れたからだ。だから学園祭ライブでは「会場にいるみんなも軽音部の一員です」と言わんとばかりに観客へマイクを向け、顧問や生徒会長をメンバーとして紹介し、皆が同じTシャツを着る。拙いMCはクラスメイトの声援によって助けられ「キミがいないと何もできないよ」と現状を的確に表現した歌詞までも唄われる。
この状況を見れば意地の悪い視聴者から時折投げかけられた「練習しろよ」という苦言が全く無意味であったことが分かるだろう。彼女たちはテクニックを磨くのではなく(ギターのノイズからライブが始まるのが示唆的だ)部室でしていたようなガールズトークを披露することでライブを盛り上げてしまったのだから。あのお喋りは会場を部室に変えてしまうための練習だったのだ。部室であれば何をしても受け入れてもらえる。彼女たちのライブに4年目があるとすれば壇上でケーキを食べ始めるのは明らかだ。
というわけで20話のライブはハレの場をケに変えてしまう所が面白かったのかなー。んでだからこそ続く21話で推薦を蹴って全員が同じ女子大を目指すってことになってしまうんだろうなーとも思った。ベタベタな関係を卒業してそれぞれの道を進むんだろうなーと感じさせるライブじゃなかったしー。最近の作品って「非日常よりも日常の方が大事だよね」ってなオチで終わること多いけど、その代償みたいな感じなのかな。あと劇場版もやるらしいけど普通に面白かったらそれはそれでよし。もしつまんなくても今回のライブのように観客が盛り上げるので勝ちパターン決まってるじゃん。劇場を部室に変えるんですよ。さすが京アニクオリティ。