サザエ帝国

久々に『サザエさん』見てて思ったんだけど、サザエさんが日本各地を巡るおなじみのOPって明治以降の政府が如何にして日本を近代化させてきたのかを辿るドキュメントみたいだなー。ってことはもし先の戦争で日本が勝ってたら、サザエさんは外地を旅してどのように「近代化」されていったかを説明するOPになってたのかなー。そんでレジスタンスはサザエさんの顔に×を描いたプラカードを持って抵抗するんだろうなー。

コスプレが苦手

コスプレが苦手だ。もちろんコスプレをするのではなくコスプレを見るのが苦手だ。街中やイベントで不意にコスプレイヤーと出会えば体が硬直し身構えてしまう。コスプレは見られることによって完成する訳だから別に見たって構わない、いやむしろ見ないと失礼だ。視姦してやる! そう頭では思っていても伏目がちになってしまう。こ、これじゃおれが女性とコミュニケーションできないダメ人間みたいじゃないかーと相談に行ったら「コスプレに関心が無いからでしょ」と言われて得心した。
例えば普通の人がコスプレイヤーを見た時は「〇〇のコスプレだー」とか「よく似てるなぁ」とか「何のキャラのコスプレかなー」など、元のアニメやゲームを通した感想が浮かぶのだろう。だがおれはコスプレに興味がないので、そのようなフィルターを通した感想が生まれない。
そんじゃどんなことを思うのかといえば「過度に露出の高い服を着た女だ!」「臀部を半分近く露呈させた女だ!」「下着を膣に食い込ませた毒婦が!」とダイレクトに劣情を催してしまう。コスプレには興味がないが淫靡な女の肉体には興味深々。おれにとってはコスプレもフーターズも同じ扱いなのだ。
つまり純粋にキャラクターが好きで衣装に身を包むコスプレイヤーさんを視姦してしまう己の下劣さに対する罪悪感。そしてそんな卑しい自分を見透かされてしまうのではないか。という恐怖からコスプレを直視できなかったのだ。
しかし苦手意識の原因が分かってしまえば後は楽だ。どうせ一種の自意識過剰みたいなもんでコスプレイヤーはおれがいやらしい目で見てるなんて気付く術もない訳だから全然大丈夫。オールOKこれから視姦しまくるぞー。と思ったら「でもコスプレ苦手とか言っときながらお尻ガン見してたよね」と注意されてしまった。ひえっ! バレてるー。

なぜオタは加藤

「なぜオタで傷つきました」とよく言われる。昨日も言われてしまった。見知らぬ人から言われてしまった。
接客業経験の長いおれはとりあえず謝罪をした後で弁明に走る。これでも気を使っていると。危険なのでお蔵入りにしたのが何個もあると。先日の『Angel Beats!』の感想だって「ってことは彼女が来世でも障害を負ってると確定させちゃった訳だろ。ひどいよーひどすぎるよー。女の子が永遠に不自由であることを望むオタの罪深さ」という結論は書かなかったと。それに君が傷ついた「なぜオタはいきなりプロレベルの作品を作ろうとして挫折しますカ」はおれが書いたんじゃないと。それでも納得はしてもらえない。
よく見ると彼は頭から血を流していた。これがなぜオタで受けた傷らしい。それ以来血が止まらない。どうしてくれるんだとおれを責める。このままでは埒が明かない。もはや最終手段しかあるまい。おれはボタンに手をかけ、服を脱ぎながら叫んだ。
「君はなぜオタで傷ついたかもしれない。だがおれの方がもっと傷ついている!」
上半身裸となり体に刻み込まれた無数の傷を晒した。大小さまざまな傷痕の全てはなぜオタで受けたものだ。ひとつひとつの傷に指差し「これはあのなぜオタで受けた傷」と説明を加える。実体験を元にしたなぜオタで笑われ、親友を元にしたなぜオタで友を失った。その悲しみが君には分かるか。おれがなぜオタを書いているのではない。なぜオタがおれに書かせているんだ。おれもなぜオタの被害者だ!
決まった。彼はうつむき震えている。もはや言葉も出ないだろう。このまま立ち去ろう。しかしその背中に彼の予想外の一撃が突き刺さった。
「じ、自分が傷ついているから他人を傷つけても良いだなんて、そんなの秋葉原の通り魔じゃないですか。なぜオタは加藤ですよ!」
そうか、そうだったのか。分かったぞ。アラサー兼無職という通り魔に近い境遇でありながら、おれが犯罪者になっていない理由。自分の破壊衝動をなぜオタに押し付けることで心の平穏を得ていたんだ。なぜオタが代わりに人を傷つけることでおれを、ひいては世界を救っていたんだ。いつの間にか胸からは鮮血が噴き出し、押さえた手は真っ赤に染まっている。おれは薄れ行く意識のなかでなぜオタに感謝を捧げた。ありがとうなぜオタ。

Angel Beats!のフラッシュフォワードについてのお話

Angel Beats!』見終わった。10話が面白かったのでその説明。
Angel Beats!』は全編を通してフラッシュバック、いわゆる回想シーンが数多く出てくる。例えば登場人物たちが前世のトラウマを喋る所とか。ちょっと違うけど「さっきは何だったんだ」ってなセリフを言わせて、少し前に見たばっかの映像をセピア色にしてもう一度使ったりもする。つまり過去の出来事が挿入される場面が多いのね。まぁ前世をうまく生きられなかった人達の話なのだから過去に拘泥してるのは当然なんだろう。
そんじゃその逆であるフラッシュフォワード、未来の出来事が挿入される場面はというと「本編」には一度しか出てこない。それが10話のユイが来世に転生するため消える場面。少し詳しく見ていこう。
恋人役の日向が「また60億分の1の確率で出会えたら そん時もまたお前が動けない体だったとしても お前と結婚してやんよ」とユイに告白。寝たきりだから出会えないとその来世を否定するユイに対して、野球やってるから家の窓ガラスをボールで割った時に会うって感じのことを言う。そんで会話が終わると場面が飛んで、日向の語った来世の映像が流れる。これがフラッシュフォワード。時制が現在に戻るとユイは消えている。
不真面目な視聴者であれば「別に未来の出来事とは限らないじゃん。妄想かもしれないし」と水を差すかもしれない。だがそれは間違っている。二人は来世で絶対に出会える。あの映像は必ず起きる出来事なのだと確信を持って言える。というのも『Angel Beats!』の視聴者は未来の映像を毎回目撃してきたはずなのだ。提示された未来が妄想や幻覚などではなく実際に起きる事実だと「本編」の中で繰り返し確認させられてきた。
思い出して欲しい。なぜ『Angel Beats!』はオープニングアニメーションで、それもメインとされるサビの部分で、今から始まる「本編」の映像を見せているのか。作画の節約? スケジュールが間に合わなかった? そんなはずがない。今から始まる「本編」の映像は未来に他ならない。その必然性を証明するためだ。OPに流れた未来は「本編」で目撃されることにより現実へ変わる。私たちはOPで流れた映像が本編で使われるのを毎回のように見てきたはずだ。話数ごとに再編集されたOPは常に未来を提示し続け、私たちはそれを見ることで現実へと昇華してきた。
そのOPは10話で突如無くなる。もちろんこれは未来の消失を意味するわけではない。消えたOPの代わりにユイのフラッシュフォワードが立ち現れるからだ。あの告白はOPの変奏に他ならない。OP=告白となり「本編」=「来世」が挿入される。だからこそ告白シーンでは歌が、まるでオープニングソングかのように流れているのだ。サビと同時に「来世」が表れる同一性までも備えて。そして「本編」が現実に起きたのと同じように「来世」も必ず訪れるだろうという余韻を私たちに残してくれる。
ユイにとって『Angel Beats!』の世界はこれからはじまる「本編」のオープニングアニメーションのようなものだったのかもしれない。

不健全な僕が健全育成条例について語ろう。

東京都青少年健全育成条例改正案が盛り上がってたんだけど何かイマイチ乗りきれねーなー。なんでだろー。「毎年のように繰り返されるポルノ規制の議論に飽き飽きしてるから?」何かオリンピックみたいだよね。「矛先が自分へ向けられた途端、石原都知事を叩くオタにゲンナリしたから?」前まで閣下閣下言いまくってたよね。「最近めっきり性欲が減退してきたから?」いやーまだまだ現役ですよ。最近だと『超変身!アニメコスプレックス 並木優』が良かった。下品な乳首がすごく良かった。と自問自答している間に可決してしまった。終わった! 日本のオタ文化は終わった!(絶望先生) 
今回の戦いを遠くから見てると、オタ側は犯罪の統計や限定効果説などデータや科学的根拠で規制の効果に疑問を呈するのに対し、都側は「子供たちを守りたい! あとオタキモイ!」という感情論で動いてるのかなーって印象。特に都知事の過激な発言とか見てると。
そんで冷静な意見VS感情という戦いに持ち込まれてしまったことこそが敗因だと思うんですよー。というのはオタの世界においてデータや科学的根拠を出して戦うことは死を意味するわけです。努力・友情・勝利を著しく不当に賛美している雑誌に連載されていた『ドラゴンボールZ』を例に挙げると「私の戦闘力は53万です」と客観的データによる優位性を示したフリーザや「サイヤ人の王子であるオレサマ」と遺伝による優位性を示したベジータは共に孫悟空の理不尽なパワーアップにより敗れてしまう。戸愚呂(弟)は100%中の100%を出しても負けてしまうし、起動確率が0.000000001%のエヴァンゲリオンは動いてしまうし、一台12億円の戦車は踏み潰されてしまう。
私たちはデータや数字が裏切られ敗北していく場面を数多く見てきたはずです。「なにぃ計算上ありえん!」 「私を倒すのは不可能だ!」という発言は敗者にのみ、悪役にのみ許された身振りなわけです。初代プリキュアなんて毎回「絶対にあきらめない!」という何の根拠も無い発言で勝ってたし。データや科学的根拠は感情の前に屈する運命にあるというオタが一番良く知っているはずの法則を忘れさせ、敗者の身振りを演じさせた石原慎太郎。さすが芥川賞作家は違うぜ!
それでは「子供たちを守りたい!」という感情にどう戦えば良かったのかといえば、こちらも感情で勝負。「子供たちを犯」おっと危ない。ワナに嵌められるところだった。芥川賞作家は狡猾だぜ。「こども店長を殴」おっと間違えた。トヨタのCMが流れたもんで。「自由なオナニーを!」これだ。これしかない。次の法案はこのスローガンで勝負だシンタロー(南国少年)

ラノベ種付論

最近ラノベ読んでるんですけど面白いッスねー。アニメ化された数冊しか読んでないんだけどやっぱ原作の方が断然面白いッスわー。基本的にラノベって種付けじゃないですかー。ってな話をSkypeでしたら面白がられたので転載。
とりあえず主人公(種馬)がいてヒロイン(種牝馬)がいる。そんで友人やら家族やら世界観やら(種付け師)がどうにかしてこの二人をくっつけようとしてくる。例えば学校の先輩が無理矢理デートに誘わせるとか、ひょんなコトから同棲生活を送るようになるとか、ヒロインと付き合わなければ世界が崩壊するといった傍迷惑なものまで存在する。基本的にプライドが高いオトコノコな主人公は拒否するんだけど、段々と絆されていき最終的にはキスしたりカップルになったりセックスしたりする(種付け完了)。そしたら用済みとばかりに物語は終わってしまう(馬は挿入から数秒で射精する)。主人公が悶々と悩むのに対してヒロインは最初からジッとしたマンマなのも本物の種付けに似てるよね。いやーこんな状況をセッティングしてもらったらどう考えても付き合っちゃうだろ。ラブワゴンじゃねーか。羨ましかー。
とこんな前提で『涼宮ハルヒの憂鬱』を読むとキョンは種牝馬をあてがわれた種馬じゃなくて、最初からハルヒだけを狙ってたハンターだと分かってカッコいいぜ。「授業中以外に教室にいたためしがない」ハルヒの髪型が毎日変わるのに気付くってかなり意識的に視姦していたという告白だし(ハルヒキョンの後ろの席なので授業中は見れない)、描写の段階で「えらい美人」と常に「かわいい」としか書かれないメガネや巨乳と差別化されてるし。
この作品も「ハルヒと付き合わなければ一生外へ出られないぞ」という強制がラストにあるんだけど、ハルヒと仲良くなったキッカケはキョンの方から話しかけたからで「種付け師に頼らずキッカケぐらい自分で作れよ」というメッセージなのかなーやっぱ積極性かーと身につまされる思いになった。いやーやっぱねコッチから惚れたって認めるのはオタにとって世界を滅ぼさせるほど恥ずかしい行為なんですよねー。